「…だから、とりあえず方程式を立てて、情報を整理して…」

「だー!もう!そういうのいいんだよ!情報とか柳みてーなこと言うの禁止!答えだけ教えてくれればいいんだよ!」



ぽいっとペンを投げ出すと、丸井君はそのまま机に突っ伏して「休憩する。」とふてくされたように呟く。
…答えだけ教えるとか、それじゃぁ柳君に頼まれた意味がないんだけどなぁと言えない言葉を胸の中で反芻した。
先週、2学期初日。いつも通り、放課後の図書館で本を読んでいた。そうしたら柳君に会った。で、丸井君のたんまり溜め込んだ夏休みの宿題を手伝うように頼まれた。柳君には沢山本を借りている恩があるので断れず今に至る。柳君は切原君という後輩に勉強を教えるので手一杯らしい。大変なんだね。と言ったら苦笑いした彼を思い出す。計算高いと見せて柳君は意外と苦労性だと知った。


夏休みは終わってしまったのに丸井君は得意の現国以外何一つ宿題を片付けていなかった。夏休みが終わった2週間後、つまり来週は実力テストがあり、夏休みの宿題から出題されるというのに。英語と古典と理科はなんとか終わらせたけれど数学が苦手らしい彼は何度式を立てろと言っても問題を見るだけでイライラしてしまうらしく一向に進む気配はない。
図書室は丸井君がすぐ怒るからいられなくなってしまった。時折温い風が入ってくるものの、クーラーのかかっていない放課後の教室の暑さも彼のイライラに拍車をかける。何度目か分からない中断に苦笑いが溢れる。



半袖の白いシャツに学生らしくない赤茶に染められた髪。丸井君からいつもするお菓子の甘い匂い。どうしたら機嫌を直してくれるのだろうか。…お菓子あげたらやってくれるかな。ガキ扱いすんなって怒鳴られそうだ。と外を見る。テストが近いから活動している部活はないらしく外は静かだ。いつもなら色々な声や音がするのに変な感じ。西日が眩しくて目を細める。
丸井君の集中力も切れてきた。そろそろ終わるべきだろうかと思案する。2週間あれば宿題も終わるしテストも平均点レベルには達することができるだろうと思ったが甘かったらしい。数学や理科といった理系科目に拒否反応を出してしまう彼を机に向かわせるのも一苦労だ。頭が悪いわけじゃない。むしろ地頭は良い方だと思う。始めてしまえばスポーツをしていることもあり集中力もあるけれど、始めるまでが長い。
そして集中力が途切れると丸井君は全部を放棄してしまう。そうなれば再開させることに一苦労だ。


「オマエ、全っ然怒んねーのな。」



いつの間に丸井君は顔を上げていた。光が赤い髪を照らす。くりっとした目が伺うようにこっちを見る様子は猫みたいだ。頭撫でたら怒るんだろうなと思いながら、「怒んないよ。」と笑う。逆に丸井君は不機嫌そうだ。口じゃなくて手を動かして欲しいなぁとは言えずに先の言葉を待つが、目を逸らされてしまった。…気まぐれなところも猫っぽい。



「もう帰る?」

「まだ帰んねーよ。」

「宿題する?」

「つーかオマエさぁ、」



丸井君は、相変わらずイライラしている。くりっとした目に品定めされるみたいに見られるのは苦手だ。見透かされている気がする。悪いことなんて何も考えていないのに後ろめたくなる。強気な目に長い睫毛。女の子みたいに整った顔。社交的でにぎやかな人かと思いきや、接してみれば短気で人に干渉されるのが嫌いということが分かってきた。
ジャッカル君と仲が良くて幸村君によく懐いている。真田君のことは尊敬しているけど苦手で、柳君はよく分からないから対応に困っているというところだろうか。
「なに?」と問えば「オマエ、柳と仲良いよな。」と突拍子もないことを言い始める。
…柳君。お互いに異性では話す方だけど、仲が良いかと言われればそうでもないと思うんだけどなぁ。彼の落ち着いた雰囲気は好きだけど。
丸井君の意図が汲み取れずにじっと言葉を待っていると呆れたようなため息をつかれる。テストを一週間後に控えた校内は静かだ。不思議だ。と思う。こんな風に丸井君と向かい合って勉強することがあるなんて思わなかった。私とは別世界の人だと思っていた。同じ学校に通っているのに、丸井君はどこか遠くの人だ。遠くて、特別な人。沈黙に耐えかねて言葉を発するのは私で、白い光を放つ蛍光灯はやたらと目に痛い。



「…そう?」

「よく喋ってんじゃん。」

「ああ、読書の趣味が合うからね。」

「読書、ねぇ。俺漫画しか読まねーし。…。」




呼称がオマエから苗字に変わったことでぴくりと顔を丸井君に向ける。反対に目をそらされてしまった。意地悪したくなってその頭に手を置く。丸い目を更に大きくして、「いきなりなんだよ!」と怒られてしまう。「赤いなぁと思って。」と笑うと「触んじゃねーよ」とふてくされる。赤く染められているのにも関わらず丸井君の髪は柔らかくて驚いた。
髪の毛を触られるのが嫌いな人は自尊心が高いと聞いたことがある。確かにそうだと思ってもそんな失礼なこと言えない。今日の丸井君は怒ってばっかりだ。思わず苦笑いすると変な沈黙が生まれた。「どうしたの?」と言えば目を泳がせる。最初は派手な丸井君が怖かったけどいつの間にか扱いに慣れてしまった。女癖が悪いとかそういう話は沢山聞いたことがあるけど、丸井君から女の子の話は聞いたことがない。



「…オマエさぁ、柳に勝ちたいとか思わねーの?」

「勝ちたい?」

「成績。いつも2番だろ。」

「ああ。そのことか。」

「…そのことって、オマエすっげークールだな。」

「勝ちたいとか思ったことないよ。柳君は地頭が良いし勉強家だし私とは違うから。」

「…そうかよ」


3位以下は多少変動するけれど立海大付属の1位と2位は不動だ。1位柳蓮二、2位
誇らしげに掲げられる順位に感慨を持ったことは正直なかった。柳君も、きっとないのだろう。柳君は学ぶことが楽しいから勉強をするのだと思う。好きだから極める。単純なことだけど羨ましいと思う。
私は怖いからこなすだけだ。


「…丸井君は?」


「は?」

「丸井君は勉強しないの?」

「…俺はいいんだよ。部活あるし。」

「頭良いのにもったいない。」



はたっと、丸井君の視線が私に定まる。目を丸くするというのがぴったりな表現。驚いた猫みたい。ちょっと笑うと嫌な顔された。
丸井君は地頭が良い。極端に短気なだけで飲み込んでしまえば器用にこなす。
テニスは好きだからやる。勉強は嫌いだから最低限しかやらない。とてもはっきりしていて良いことだと思う。私にはそんなことできないから。
私は、丸井君のことも羨ましい。



「…オマエさ、なんでそんな自信なさげなわけ。すげーじゃん学年2位。そんな勉強してるふうでもないのに。」



虚をつかれるとはこういうことだろうか。
窓から入ってくる生ぬるい風がざあっと頬を撫でる。温かくて優しいのにその温度は不快だった。息を呑む。いつも通りの教室。安っぽい蛍光灯。着なれた制服。日常の風景。でも私の目の前にいるのは丸井君で、それだけが非日常だ。
赤い髪。いつも噛んでいるグリーンアップル味のガムの甘い匂い。私は丸井君の思考とか、交友関係とかそういうことは全然知らないけれど、1週間の勉強会で色んなことを知ってしまった。学校は退屈だけど部活は好きなことだとか、少し癖のある字だとか、そんな些細でとりとめのないこと。



「…帰ろーぜ。また明日、よろしく。」



がちゃがちゃと筆記用具を片付ける音で現実に戻される。嫌なところを見られてしまった。そう思っても遅い。丸井君はカバンを肩にかけて早くしろと言いたげな目で私の方を見ている。最初の2日間はお互いに適当な理由をつけて別々に帰っていたというのにどうしてこうなったのだろうか。宿題は丸井君の勉強を見る間に片付けてしまったので教科書は置いて帰る。肩にかかったカバンは薄っぺらくて軽い。



20120427